昭和43年7月22日 夜の御理解
信心は大きな信心が良いと、迷い信心ではいかんと、おっしゃる、ね、「信心は大きな信心が良い迷い信心ではいかん、一心と定めい」と、なかなかこの大きな信心が出来ん、なかなか自分の我情我欲の信心は出けても、大きな信心というのが出けん、大きな信心のところには行き詰まりがない、え~ね、小さい信心では必ず行き詰まりがくる、行き詰まりが来てもやはりおかげを受けるから、まあなんとは信心は続くは続くものの、ね、本当の意味でのおかげにならん、今日私こういう二つのお届けをまあさせて頂いた、え~、一人はあの高橋さんの事でしたけれど、今日は丁度事故に合われて八年げな、こちらは単車でしかもお~、ルールを守って運転して行きよったのに、向こうの方から、あ~、衝突されて、まあ大変な怪我をされた丁度八年前の今日であった、今日は一日もう死んだと思うてとうので、朝からの御祈念から夕方まで御用を頂いて帰られた、思うみるともう本当にあん時死んどったって文句でん言えないのでございますけれども、おかげを頂いたと言うて、あの、夕食を一緒にさせて頂きながらですけれど、私改めて「はぁあんた素晴らしい道を辿っとったね」と話したことでしたけれど、そん時にですね全然相手は、お多福綿、大きないわゆる、あのお多福綿と言うあの工場でしたから、要求するならどれだけ要求しても良かった、ね、ところが勿論自動車、あの単車でしたから、単車の修繕だけは、その勿論医療費だけはあっち向こうが払いましたけれども、それの他にはもう、本当に人が馬鹿と言うたけれども、一銭も要求しなかった、ね、そして今度はまたある人のこれはお取り次ぎをさしてもらったんですけども、これはやはり事故に合われて要求を今しておられるわけなんです、それで、え~、五百万か要求しておられるけれども、神様は「それでまだ少ない」とおっしゃる、本当は、ね、「もっと要求しても良い」と言うわけである、ね、ですからどちらも例えばあの、取らせて頂くとが本当かと言うとその人の信心ですけれどもね、本当のことが分かったらね、本当のことが分かったら、あの、向こうから例えば衝突されたにしてもね、うん、こちらが、向こうが例えば酔っ払い運転であろうが、その違反した運転であろうが、こちらはルールを守って行きよっても、自分がそこにおらなかったら向こうは事故をおこさんのだからね、だから本当の信心の頂き方と言うのはそうなんだ、そのことを今日高橋さんが言うんです、私その時に丁度、親先生がまだあのご信者時代に、勝彦さんが小さい時、丁度あの自動車に、あの自転車にしかられた事があった、その話しは聞いとった、丁度私の目の前で、もうたてしにこうしいて行った、もう目の前ではっと思うようなのだった、もう相手が自転車ですけれどもね、それで、あの~、近所の方がつるつる出て来てからその自転車が逃げんようにこうやってあの、お~、はんっ、その自転車をにぎってから、捕まえとって下さったです、私は表にそれ見よったからすぐ飛び出て行ってから、勝彦を抱いて自分方の家に行くと同時に、「やぁどうもすいませんでした、ご迷惑かけました、早よ行って下さい」と言うて私は、自転車をやったんですよ、そしたら近所の人あの、捕まえておって下さった人が腹かきなさいましたです、「せっかく私が捕まえておっちゃったとけん、それはあんた見舞い金ぐらい取らにゃあんたどこばでげな風に怪我どんしてからどうすんの」っち言うてから、(?)私が言われた事がございましたけれどね、もう本当あのね、子供がね返ってご迷惑かけとる方ですよ言うならば、ね、言うならば、ですからこれはもう私は、信心が出けとった出けてなかでも、そういうあの性本と言うか、そういう性根の中にそういうようなものがある、「そのためにいっちょ本当金を取ってやろう」と、いう考え方、取ってやろうというこじゃそれはまあ当たり前の事としてです今保険やらがあってから、そういう時にはそれが支払われるようにまで出けておるのですから、それは取っても良いのです、ね、けれども今日一つの場合なんかは、その五百円、五百万取ってもまだ足りない、本当言うたら、ね、それはあの、どういうことが足りないかと言うとね、痛い思いをしたというだけのぐらいなことじゃない、その精神的なショック、「もし死んどもしたらどうするじゃろうか」と言うて家族中の者が心配したといったようなことを計算にいれたらもう税金じゃないって、五百万円、七百万円取ったってそれでは足らんのだと、だからお願いをしておかげを頂くということもそういう願い方もあるわけなんですよ、ね、ところがねこういう生き方の信心はね、必ず小さい信心ですからね、行き詰まるです、ね、要求取り、払いどもしなかったら、結局その、やはり裁判しからでもといったような結果にもなりかねないわけですね、とそんなら片一方の方は、高橋さんのこの場合はですね、あのその親先生のそういうような話しを聞いておったから、本当に口でこそ言わんばってん、「相手にもご迷惑かけた」という気持ちが強かったと、だから向こう、今から考えてみると向こうも向こう、本当に良かこと向けてからですね、もう全然あの、お~、薬代と、ただ単車を修繕する、新しかんとに買っちゃったんですかね、もうめちゃめちゃでしたから、というだけでまあ、あ~だから向こうは全然損にもならなかったことだろうと言うて、まあ今日は言うておりましたが、そういうところが私あの、馬鹿と阿呆じゃなかろうかと、その馬鹿と阿呆ということが、言うならば大きな信心なんですよ、大きな信心とはそういう信心なんです、そこにはね、そん時には百万も二百万も要求すりゃ取れた金でもですね、もうそれから先に受ける力とか徳というものはもう百万二百万で買われるもんじゃないです、ね、私共はいつの場合でもそのところを思うてみるけれども、なかなかここのところがですね、「大きな信心大きな信心」と言うけれども、なかなかその大きな方の信心をとらえきらんです、ね、いわゆる馬鹿と阿呆になるというくらい大きな信心はありませんです、ね、それにやはり性根の中にですね、その、ん~、「知らごつ言うちからでん取ろう」と、ね、「取らんもんが損」といったようないわゆる我情我欲があってはね、やっぱそういう時に出てくるようです、どうしても、ね、だからそれは今の、お~、現代社会の一つの、お~、まあ生き方としてですたいね、当然向こうが悪くて向こうが衝突してきてこちらに怪我をさした、車をそだしたと、ね、だから怪我したなら勿論それは病院代ぐらい当たり前だけれども、それに対するところの何ヶ月間病院に入院するなら何ヶ月間入院の、その、損害賠償と、ね、損害賠償です、それから、まあ、あ~、そのにっとう、もう何からかにまで損害賠償の中に、それこそおぉ小さいことまで計算にしてこれだけを要求するということもです出来るである、そしてまたそれも払うことが出来るように障害派遣といったようなものもある、けれどもこれはいわゆる信心のない誰でもすることなんだ、だからこういう時ですね「本当あんたどん馬鹿じゃなかの、要求すりゃ百万も二百万も取られるとばい、ほんにあんた馬鹿じゃなかの」さあ言われても、そん時馬鹿になることがおかげです、信心ちゃあですね、そげな、あの、もうとどこど真実なことを言うたらね、そげなんもう命にかかわるような大きなめぐりのお取り払いを頂いたことでもありゃです、いよいよ大きな信心をさして頂く良いチャンスを頂いた時であるですから、そういう時にですね、もう抵抗なしに大きな信心の方がとれる、そういう時に本気で馬鹿と阿呆になれれるような信心をね、常日頃しときたいな、そういう時でなかにゃ徳は受けられないです、私はその事を、今日おんっ、一人高橋さんの場合はもう八年も前のことでしたけれどもですね、良うも本当にあの、あんたあの本当の馬鹿と阿呆でいったね」、それもうんなら私のささやかな体験であったけれども、いつも話しておる事を聞いておった、ね、もう逃げられたら、見舞金に行かなんと取らにゃんといったようなその考え方ではなくて、返ってご迷惑かけたという感じがほど本当なんだ、ね、そこにはね、もういつどんなことがあっても行き詰まらない、ね、信心、ね、私は大きな信心とはそういう信心を大きな信心だと、私は思う、いよいよほんに信心にならなきゃならないことが分かる、ね、どうそ。
そういう時にですよ、例えば何百万取ったということを、信心で良いのですよ、お繰り合わせ頂いて頂くのですから、それはおかげなんです、ね、けれどもそれはそれまでの話し、ね、ただ大きな信心ではない、ただお願いをしておかげを受けたというだけにすぎんのですよね。 どうぞ。